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アルバム売りさん

アルバム売りさん

蜜柑

 小学校低学年だったその夕暮れどきの出来事を、私ははっきりと覚えている。
その日の放課後、私は同級生の晴美ちゃんと校舎の踊り場にいた。踊り場といっても、幅2メートル程の木製の頑丈なテーブルが置かれていて、二十人位なら座れる広さだ。木製の棚に、動物や果物などを石膏でかたどった彫像が置かれていた。ずっとそれはそこにあり、それまで気にかけたこともなかった。けれどよく見ると、それらは実によくできていた。白いままのものもあったし、リアルに着色してあるものもあった。
私は、橙色に彩られた本物そっくりの蜜柑を、もっとよく見てみようと手にとった。ヘタまで付いたそれは案外軽く、本物のような柔らかさはない。その質感に軽く驚き失望したが、今度はそれを、テーブルの向こう側にいる晴美ちゃんに向かって転がしてみた。ふにゅふにゅとテーブルに皮を押し付けるように進むような気がしていたのに、それはゴロゴロと硬い音をたてて転がった。晴美ちゃんはそれをキャッチすると、私に向かってまた転がしてきた。面白くなって数回繰返してから、私はなぜだかふいに、晴美ちゃんのいない方向にそれを転がした。さっきまでと同じように、蜜柑は転がりだした。
ゴロゴロゴロゴロ…。
ヘタを見せたり隠したりしながら転がるそれを見るうち、私は妙な感覚に陥った。
自分の存在を見失ったのだ。そこには、転がる蜜柑がただあった。
転がり続ける蜜柑だけに、時間の流れが与えられているように感じた。モノクロの空間に、ただ橙色の蜜柑だけがゴロゴロ転がっていた。目が離せなかった。思考も、感情も、感覚も、何もない。私は空っぽだった。蜜柑は、時間の流れのままにテーブルの端まで行き着いた。スッとその形が見えなくなった瞬間も、私はまだ空っぽだった。
クシャ。
小さな音をたてて蜜柑は割れた。まるで催眠術師がパチンと指を鳴らすのを聞いたように、私はハッと我にかえった。テーブルの向こう側に、うろたえる晴美ちゃんがいた。帰りの音楽が流れていた。放送委員の、帰宅を促すアナウンスを聞いた。大きな窓から差しこむ西陽がまぶしかった。蜜柑は、薄い緑のリノリウムの床で、白い断面を見せて転がっていた。
あの小さな音とともに時間を取り戻してから三十年以上になる。あの情景を、私はいつでも思い出すことができる。けれどあの時の自分の状態を、今でも私は上手く自分に説明してやれないし、あの空っぽの感覚が蘇ったことは、まだ一度もない。


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